尺八

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2025/10/17

尺八と尺六

私が演奏する三番目の楽器は尺八です。左のものは一尺八寸なので尺八。右のものは一尺六寸なので尺六といいます。どちらも元々は父の持ち物です。若いころの一時期、禅僧であったことがあるそうで、それで尺八を持っていたのだと思います。父は日々吹いていましたが、85歳になったとき私にくれました。もう息が疲れるので、ということでした。

尺六は尺八より一音高い楽器です。音は尺八の方が太く、いかにも尺八らしい音がするのですが、実は今、尺八の方は鳴りません。その理由は最後に書きたいと思います。

尺八は管楽器でありながら完全なソロ楽器です。一般的に言えば管楽器は、ハーモニーは作れないし、リズムを刻むのにも適しません。メロディーを演奏するのには向いていますが、何といってもいっぺんには一音しか出せないからそれら三つをを同時には演奏できません。だから、西洋のフルートのソロ曲ではピアノ伴奏をつけることで音楽の三要素を満たしいてるのだと思います。しかし、日本古来の音楽にはハーモニーという概念がないし、尺八がソロで吹くような曲にはリズムという概念もありません。だから尺八だけで音楽が完結するのです。

試しに1曲を紹介します。この曲は、父から吹き方を教わった唯一の曲です。教わったといっても楽譜の読み方と運指を教わっただけですが。楽譜は見つからなくなってしまったので、作者も曲名もわからないのですが、三曲の組曲の二曲目で、雪の降り積もった夜の景色を表現した曲だったと記憶しています。

雪夜(正しい題名は思い出せません)

おそらくこの曲は西洋音楽が日本に入ってきてから作られた曲です。西洋の音楽とはだいぶ違いますが、それでも人に聞かせるための工夫が入っており、まだ音楽といっていいと思います。しかし禅の修法として吹く曲は自己の精神のためのもので、もはや音楽ではありません。以下は禅僧が托鉢に出るときに最初に吹く曲です。

一二三(ひふみ)

私は禅僧が尺八でどのように禅を行うのか知りませんが、それでもこの曲を吹いてみると、これが人を楽しませるためのものではないことを感じます。これは自分の心を澄み切らせるための方法、いい音を出そうとするのではなく、自分が出した音を聞くことに集中するためのもの、そういうことを感じます。この演奏では途中で音が乱れていますが、それは私の、うまく吹こうという欲の現れです。

私が尺八を吹くのは週にせいぜい数分だけのことですが、それでもそういう時間をとるということは私にとって良いことです。

ところで以上の演奏では尺六を使っています。尺八の音はさらに深いものなのですが今は鳴りません。父は私に尺八をくれてから9年後、94歳で亡くなりました。大動脈解離で、心臓から出る最も太い血管が縦に割けてしまいました。直前まで家族と一緒に夕食を楽しみ、寝室に行ったところで発症して意識を失ったまま亡くなりました。苦しむことのない上手な死に方でした。

葬儀が終わって数日後、尺八を吹こうとしましたが、なぜか音が鳴りません。管をよく見てみると縦に割けてしまっています。竹でできた楽器ですからこういうことはときとしてあります。修理に出せば直すことはできるのですが、まるでもともとの持ち主の後を追うように父と同じ方法で自分の楽器生命を終わらせたこの尺八を、果たして私が直していいものかどうか迷って、いまも鳴らないままなのです。


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